さらに歩き続けたヤマトタケルは疲れて杖をついて歩いたのでそこを「杖つき坂」といい、またある村に着くと疲れた足が「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」と嘆いた事から「三重(みえ)」というようになりました。ヤマトタケルはどんどん体調が悪くなり、大和への望郷の思いが募っていきます。 そしてヤマトタケルは国しのびの歌を詠みます。「大和(やまと)は国のまほろばたたなづく青垣(あおがき)山隠(やまごも)れるやまとしうるはし」。ついに愛した妻を懐かしみながら、力尽き倒れてしまいました。 死の知らせを聞いた妻や子供たちは、伊勢の野褒野(のぼの=三重県鈴鹿郡)に駆け付けました。 するとその御陵(墓)から白い大きな鳥が天空高く飛び立っていきました。ヤマトタケルは白鳥となって恋しい国へ帰って行ったのです。 その白鳥が飛んで留まった河内(かわち)の国の志紀(しき)に御陵を作り、「白鳥(しらとり)の御陵(みささぎ)」と呼ぶようになりました。

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